2011年3月20日日曜日

仙台のおじいちゃんのこと


東北地方太平洋沖地震があった、ちょうど一週間前に、仙台に住む旦那さんのおじいちゃんが亡くなった。

もう90歳間近で老衰もあり去年の9月頃から入院はしていたけれど、それほど容態が急変しているというわけではなくて、それでも最近は少し意識が遠くなる時間があるから今月の連休くらいにはお見舞いに行こうということを、お義母さんと話していた。それは3月4日のことだった。そして、3月の3連休に仙台に行くことを決めたその翌日、3月5日の夜、娘を寝かしていた私のところに来て、だんなさんが「おじいちゃんが亡くなってしまった。」と告げた。お見舞いに行くつもりで久しぶりにおじいちゃんに会えると思っていたので、あまりの突然のことになんだか頭が整理できなかった。そして2日後の3月7日に、家族で仙台に向かった。

3月7日がお通夜、8日が告別式だった。家族、親戚、友人などに見守られたおじいちゃんはとても良い顔で眠っていて、遺影もとても優しい笑顔だった。私は数回しか会ったことないおじいちゃんだったけれど、娘の野乃子を抱っこしたり遊んだりしてくれた姿を思い出して、涙がはらはらと出てきた。野乃子は、「おっきいおじいちゃんがしんでしまって、もうさよならなんだ」ということは理解できているみたいで、何度もおじいちゃんの棺の側に寄って顔を見ては、おじいちゃん、ばいばいだね、と語りかけている。その姿を見てまた私も泣けてくる。

おじいちゃんを送るのはとても寂しかったけれど、野乃子はそんな中でも天真爛漫にはしゃぎ、私もだんなさんも初めて会う親戚の方々にもあっという間に慣れて、本当に沢山の人の手を握っては笑わせたり、抱っこしてもらったり、会場内をぱたぱたと走りまわって笑顔を振りまいていた。正直、告別式なのに…と私のほうははらはらしていたけれど、親戚の色々な人から「ののちゃんが居てくれて本当に良かった。湿っぽくなるところが、ののちゃんのおかげで良い雰囲気で送り出せた。」という声をかけてもらえて本当に私の気持ちも癒された。

告別式の後の親族の会食では、9人きょうだいだったおじいちゃんの、甥や姪、その配偶者…など、それぞれ親戚ながら初めましてという人も沢山いたようで、また何十年ぶりに会う人もいたので、改めて親族紹介が行われ、それぞれがおじいちゃんの思い出を語ったりと、とても心温まる会食になった。おじいちゃんは沢山の人に温かく見守られて天に召された。

私たちはその日一晩泊まって、9日の朝の新幹線で東京に帰ってきた。そしてお昼に家に帰ってきたら、そのまま会社に行っただんなさんから「今、仙台で大きめの地震があったみたい」と連絡をもらった。すぐに仙台に連絡したけれど、大丈夫だったよ、と連絡をもらって安心する。だんなさんの両親は福島のいわきから車で仙台に来ていたのだけど、午前中は仙台に居たので地震にあい、それが落ち着いてからいわきまで車で帰ってきたという。そのときは、その2日後にあんなことになるなんて思いも寄らなかった。

そして11日の午後、あの大きな地震が起こった。何よりも仙台の親戚、いわきの両親が心配になったけれど、当日は当然、電話が全く繋がらず、翌日になってからどちらも無事ということを知り、本当に安心した。そして後から聞いた話では、仙台では11日の午前中に、ちょうど初七日の法要を済ませたところだったという。

お見舞いの予定まで立てていたのに、急に逝ってしまったおじいちゃん。私は、おじいちゃんが地震を予期して、先に逝ってしまったのかなと思わずにいられなかった。長いこと会っていなかった親戚をみんな一同に会わせて、野乃子も久しぶりにおじいちゃんやおばあちゃんにの顔を見ることが出来て、そして皆で楽しい会食をして、思い出話をして、地震が来るけれどみんなくじけずにね、親戚がこんなにいるのだから力を合わせて頑張ってね、自分は先に逝くねと、そうやって笑顔で逝ってしまったように思えた。

後からお義母さんの話を聞くと、おばあちゃんのことも心配だったし、もう少し仙台に留まろうかと思ったけれど、なんだか帰らなければならないような気がして帰ったという。そして帰り道は、海沿いを走って、被害の大きかった南相馬のあたりを走って帰ってきたらしい。それが、あと2日ずれていたら津波に巻き込まれていても不思議ではない。もしおじいちゃんが病院に入院したまま被災していたら、どうなっていたのだろう。亡くなる日がもう少し遅かったら、お葬式も出来ず、私たちは当然仙台にも行けなかっただろう。或いは仙台に行って被災して帰ることが出来なくなっていたかもしれない。考えると本当に私たちはおじいちゃんに守られたのかなと思う。

正直、こういうことを書くのは、少し抵抗がある。今回の地震ではそのわずかのタイミングのずれで、地震や津波で亡くなってしまった人もいるのだから、自分たちは運が良かったみたいなことは書きたくなかった。新聞を読んでいると、「津波があと5分遅かったら…あと1分早く逃げていたら…」というような人の話を沢山読んだ。1分の差で助かった人もいれば、亡くなった人もいる。幸い私たちの仙台の親戚は皆無事だったようだ。震災で亡くなった人たちのことを考えると、本当に涙が出てくるけれど、私たちはあの時おじいちゃんに守ってもらったと思ってこの先の人生を生きて行きたいと思った。

2011年3月18日金曜日

東日本大震災


地震以降、何かを書き記そうという気持ちに中々なれなかったのだけど、少し気持ちが落ち着いてきたので、地震以降、記録や思ったことを少しずつ記していきたいと思った。

あの大きな地震があった日、偶然だんなさんは会社がお休みで、娘と一緒に近所の公園に遊びに行っていた。私は、車で10分くらいの友達の家に行っていて、ちょっと話をして帰るつもりが予定より少し長めに滞在してしまい、「もうこんな時間だ!」と慌てて家に帰った。家について、車を車庫に入れて、公園に行っているだんなさんに電話をかけて、「今帰ってきたから、そろそろ帰ってきて〜」と喋りながら、玄関の鍵をあけて今まさに家に入ろうと取っ手に手をかけた瞬間に、ふら〜っとめまいのような揺れが来た。「めまい?」と思った次の瞬間には、ガタン!と大きな揺れがきて、「あ、地震!」と思うと、そこからは揺れがどんどん大きくなって、立っているのが怖いくらいに。近所のおばさんは布団をもって目の前の空き地に飛び出してきていた。かろうじてまだ電話は繋がっていて、「怖い!怖い!早く帰ってきて!!」と言うのが精一杯。それから、少しして、だんなさんと娘が自転車で帰って来たのだけれど、そのときのほっとした気持ちといったら喩えようがなかった。

その後、家に入ったけれど、既に停電になっていてテレビも付けることができない。もちろんネットも電話も繋がらず、携帯電話も全てだめ。ラジオも引越しの際に古いものを処分してしまったので手元になく、とにかく情報が入らない。市の放送で震度5だったことをかろうじて知る。その時はまだ、被害の甚大さを知る由もなく、町田で震度5なんだから、震源はきっと東京の近くなんだろうと思っていた。停電も解消されそうもないので、その日はなとかご飯だけは食べて、家族で18時には布団に入ってしまった。そして23時頃になってようやく停電が解消されたことに気づき、地震後初めてテレビを付けた。そのときの衝撃は今後、忘れることは出来ないと思う。目の前に映された映像の中で起こっていることが、日本国内、それも数時間前のこととはとても思えなかった。ただただ恐ろしく、でも、そこから目を離すことが出来ず、ただテレビの画面を食い入るように見つめてしまった。震源が宮城県沖、そして福島のほうも震度がかなり大きかったことを知り、だんなさんの両親に電話をかけるも全く繋がらない。テレビ画面に出ていた「仙台若林区荒浜地区、遺体が200から300。」というテロップを見て鳥肌が立つ。若林区には親戚が住んでいる。一刻も早く連絡を取りたいけれど、繋がらない。テレビからは、次々と恐ろしい映像が流されて、とんでもない災害が起こってしまったのだと理解する。映像が怖くて思わずテレビを消して布団に入るも、そのまま朝までほとんど寝付けなかった。忘れられない一日になった。

テレビで、都内ではみんなが帰れなくなっていることを知る。友人は8時間くらいかけて歩いて帰っていたらしい。寒い夜、みんな家族と離れて家には帰れず、どんなに不安な気持ちでいるのだろうかと心が痛む。偶然にだんなさんは会社が休みだったこと、地震の直後に家族がすぐに揃ったことは本当に幸せだったと、隣に寝ている娘の寝顔を見ながら思っていた。