2011年3月18日金曜日

東日本大震災


地震以降、何かを書き記そうという気持ちに中々なれなかったのだけど、少し気持ちが落ち着いてきたので、地震以降、記録や思ったことを少しずつ記していきたいと思った。

あの大きな地震があった日、偶然だんなさんは会社がお休みで、娘と一緒に近所の公園に遊びに行っていた。私は、車で10分くらいの友達の家に行っていて、ちょっと話をして帰るつもりが予定より少し長めに滞在してしまい、「もうこんな時間だ!」と慌てて家に帰った。家について、車を車庫に入れて、公園に行っているだんなさんに電話をかけて、「今帰ってきたから、そろそろ帰ってきて〜」と喋りながら、玄関の鍵をあけて今まさに家に入ろうと取っ手に手をかけた瞬間に、ふら〜っとめまいのような揺れが来た。「めまい?」と思った次の瞬間には、ガタン!と大きな揺れがきて、「あ、地震!」と思うと、そこからは揺れがどんどん大きくなって、立っているのが怖いくらいに。近所のおばさんは布団をもって目の前の空き地に飛び出してきていた。かろうじてまだ電話は繋がっていて、「怖い!怖い!早く帰ってきて!!」と言うのが精一杯。それから、少しして、だんなさんと娘が自転車で帰って来たのだけれど、そのときのほっとした気持ちといったら喩えようがなかった。

その後、家に入ったけれど、既に停電になっていてテレビも付けることができない。もちろんネットも電話も繋がらず、携帯電話も全てだめ。ラジオも引越しの際に古いものを処分してしまったので手元になく、とにかく情報が入らない。市の放送で震度5だったことをかろうじて知る。その時はまだ、被害の甚大さを知る由もなく、町田で震度5なんだから、震源はきっと東京の近くなんだろうと思っていた。停電も解消されそうもないので、その日はなとかご飯だけは食べて、家族で18時には布団に入ってしまった。そして23時頃になってようやく停電が解消されたことに気づき、地震後初めてテレビを付けた。そのときの衝撃は今後、忘れることは出来ないと思う。目の前に映された映像の中で起こっていることが、日本国内、それも数時間前のこととはとても思えなかった。ただただ恐ろしく、でも、そこから目を離すことが出来ず、ただテレビの画面を食い入るように見つめてしまった。震源が宮城県沖、そして福島のほうも震度がかなり大きかったことを知り、だんなさんの両親に電話をかけるも全く繋がらない。テレビ画面に出ていた「仙台若林区荒浜地区、遺体が200から300。」というテロップを見て鳥肌が立つ。若林区には親戚が住んでいる。一刻も早く連絡を取りたいけれど、繋がらない。テレビからは、次々と恐ろしい映像が流されて、とんでもない災害が起こってしまったのだと理解する。映像が怖くて思わずテレビを消して布団に入るも、そのまま朝までほとんど寝付けなかった。忘れられない一日になった。

テレビで、都内ではみんなが帰れなくなっていることを知る。友人は8時間くらいかけて歩いて帰っていたらしい。寒い夜、みんな家族と離れて家には帰れず、どんなに不安な気持ちでいるのだろうかと心が痛む。偶然にだんなさんは会社が休みだったこと、地震の直後に家族がすぐに揃ったことは本当に幸せだったと、隣に寝ている娘の寝顔を見ながら思っていた。

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