2011年10月1日土曜日

仙台帰省と、山形、狸森焙煎所へ。


だんだんと秋も深まってゆくというのに、また夏休みの話を…。

3月に亡くなっただんなさんのおじいちゃんの初盆で、今年のお盆は仙台に帰ってきた。3月頭のお葬式以来、久し振りに顔を合わせる親戚たち。あのお葬式の後すぐに、あんな大災害が起きるとは夢にも思わず、仙台に住む親戚がみな無事だったことを、改めて尊く感じた。

娘は相変わらず天真爛漫にはしゃぎ、皆を笑わせていたけれど、帰る日になって、最後におじいちゃんのお仏壇に手を合わせていると、突然下を向いて、しくしく泣き出してしまった。びっくりして、「どうしたの?」と聞くと、俯いたまま。「おじいちゃんとさよならするのが寂しいの?」と聞くと、うん、うん、とうなづく。その後、皆と別れるときに親戚が手を振っても、いつもなら笑顔で手を振り返すのに、俯いて泣いたまま。車に乗っても30分くらいしくしく泣き、最後には声を出してわんわん泣いていた。「離れるのが寂しい」という、そんな気持ちが出てきたのだなあと驚きながらも、その心の成長を嬉しく思う。

2011年9月30日金曜日

沖縄旅行最終日


沖縄旅行もあっという間に一週間が過ぎ、残念ながら帰る日を迎えてしまった。最後に友人に連れていってもらったのは、沖縄では行きつけになってしまった「JyoGoo」という、南城市にあるカフェ。友人の高校時代の同級生が姉妹で開いているお店で、更に珈琲も自家焙煎しているとのこと、またここの「南城カリー」というメニューがとても美味しく、初めて連れていってもらったときからすっかりひいきのお店になっている。
「JyoGoo」は世界遺産である「斎場御嶽」や久高島に近いとのことで、良く観光客が訪れていて、リピーターも多いようで愛されているお店なんだなあと思う。「斎場御嶽」や久高島を訪れたことはまだないのだけれど、今度来る時はそちらにも足を伸ばしてみたい。


沖縄旅行その6


この日もまたいいお天気。沖縄にいる間、天気には本当に恵まれた。そしてこの日は平日にも関わらず、友人がわざわざ午前休みをとって娘を海に連れて行ってくれた。海に入るならと、前日に娘に内緒で浮き輪まで用意してくれていて、朝起きて浮き輪を見つけた娘はおおはしゃぎ。そんな友人の心遣いがとても嬉しかった。

2011年9月25日日曜日

秋晴れのある日


沖縄の話はあともう少し続くのだけど、また少し休憩して別の写真を。この写真は娘の幼稚園に送っていく時に撮った風景。秋晴れの空がとても気持ち良く、思わずシャッターを切った。左下の方に見えるのが幼稚園。

毎日娘と通う幼稚園までの道には、とてもとても急な坂がある。毎日上っても全然慣れずに登り切った頃には肩で息をしているのだけれど、この坂道の途中には、空気の澄んだよく晴れた日に富士山を拝めるというご褒美がある。そして月並みだけれど、やはり富士山を見ることが出来ると気分が良い。そのまま坂を登り切ると、尾根を伝い歩く緑道が続いていて、それは大きな公園に繋がっている。時々その尾根道を歩くと、ウォーキングしている人達とすれ違う。園児たちもその緑道を歩いて、じゃがいも畑や落花生畑に収穫をしに行くこともある。その尾根道からも富士山はとても良く見える。その尾根緑道を左手に見ながら少し歩いたところに幼稚園がある。

本当に羨ましいくらい緑豊かな幼稚園で、毎朝この写真を撮った辺りに来ると子供たちの声が聞こえてきて、緑の匂いも濃くなり、とても幸せな気持ちになる。この環境がいつまでもここにあるように祈るばかり。私も娘も大好きな幼稚園。どうかずっとこのままで。



2011年9月12日月曜日

沖縄旅行その5




この日も良い天気。台風が近づいているとの天気予報だったけれど、まだ少し天気が持ちそうなので、出かけることに。この日は、友達が親しくしているご近所さんのところにいくつか連れて行ってもらった。ご近所さんにも、偶然にして赤ちゃんが同じような時期に産まれていて、その赤ちゃんに会いに行こうということになり、赤ちゃんが大好きな娘はニコニコ。

2011年9月10日土曜日

沖縄旅行その4


少し時間が空いてしまったけれど、沖縄旅行の続きを…。

この日もよく晴れた日曜日。友人のそのまた友人が仕事をしている、マンゴー農園に遊びに行かせてもらうことになった。少し車を走らせてついたそこは、広い農園にポニー、にわとり、あひる、ガチョウ、が放し飼いされている、娘にとっては天国のようなところだった。

友達の娘さんである1歳年上のるかちゃんとは、一年半ぶりくらいに会ったのにすぐに仲良くなり、どうも波長がぴったり合うようで、二人合わさってパワーが2倍以上になって、終始はしゃぎまわって遊んでいた。ちょうどいらしていた農園のオーナーさんもとても良い方で、青空の下、緑と動物を目にしながら、友達と一緒におしゃべりをしながら美味しいご飯を食べる時間は、とても満たされた気持ちになった。娘もるかちゃんも本当にのびのび遊んでいて、こんな環境で子育てができたら本当に良いなあと憧れもする。娘さん二人は相当はしゃいで(時々怒られたりもして)いたけれど、大人たちはそれを見守りながらのんびり癒された一日だった。

2011年8月31日水曜日

緑と水と


沖縄旅行はちょっと中断して、夏休みの別の話を。
ちょうどお盆頃に、ずっと行きたかった友人の珈琲焙煎のお店、山形県上山市にある「狸森焙煎所」に行ってきた。そのお店の話は、また後日詳しく…。上の写真は、そのお店の店主であるロミくんに薦められて行ってきた、「くぐり滝」での一枚。私たち家族は、緑と水があるところがとても好き。娘はそういう場所に行くと、俄然生き生きして来る。この日も、雨が降ったあとでつるつる滑って危ないような場所でも、たったかたったかと走っていくので、追いかける方がひやひやしている。

一歳を過ぎたあたりから、とにかく生き物が好きな娘。自然の多いところには大抵虫や動物がいるので、娘の目付きが変わる。そして親が気がつかないような小さな虫でもがしっと捕まえて離さない。(最近は少し眺めて楽しんだあとは、きちんと逃がしてあげることを覚えた。)幼稚園でも虫ばかり追いかけているようで、ある日帰ってきてリュックサックをあけると、ビニールに入った立派なキアゲハの幼虫が出てきて、母は固まってしまったこともあった。

それでも、キラキラした目で虫を追いかけている娘を見ていると、逞しく育ってくれたなあと嬉しくなる。娘が産まれてから、家族で緑深い場所には何度も行っているけれど、その度にとても気持ちが癒されて帰ってくる。だから、直ぐ側に山々が見える今の家も、とても気に入っている。そして娘は、森に囲まれた幼稚園から一日おきくらいに虫を捕まえた虫かごを借りて帰ってくる。


2011年8月30日火曜日

沖縄旅行その3


この日は朝から天気の良い日曜日。土曜日ということで友達の仕事も休み。朝から山の方まで虫取り散歩に連れていってもらえた娘は、朝から大喜び。お昼は、「やさい畑」というお店にて。野菜中心の優しい味の定食などを食べる。娘も食欲旺盛で、家にいるときよりもご飯をもりもり食べているのに驚く。

沖縄旅行その2


この日は、友達のご実家に遊びに行かせてもらった。山羊や豚がいたり、ブランコがあったり、優しいおじいちゃんが遊んでくれたりするので、娘もいつも楽しみにしている場所。蝉が沢山いるだろうということで、行く前にちゃんと虫かごと網を買って準備万端。そして、いざお宅に行くと、大きな木の至る所に蝉がいて、それも5匹くらいずつ固まりでとまっていて、そんな数の蝉を一度に見たことのない娘は大興奮。


2011年8月29日月曜日

沖縄旅行その1



7月の下旬から8月の頭まで一週間、野乃子と二人旅に行ってきた。行き先は沖縄。毎回お世話になっている友達の家に、今回もお世話になることになり、チケットを取ったその日から待ち遠しかった出発日。今回お父さんは仕事のため泣く泣くお留守番(ごめんね。)。

2011年8月28日日曜日

パチリ。


お気に入りの一枚。山形で、友達夫婦が営む喫茶店にて。とても可愛いボンちゃん(アメショー柄の雑種猫)とドドちゃん(ミニチュアダックス)が居て、娘は大はしゃぎ。ボンちゃんは、娘に無理やり抱っこされながらも、逃げたりせずにえらいな〜と思っていたら、声を出さないで口だけで「ニャア!」と友達に助けを求めていた。その姿が可愛くてみんなで笑う。友達夫婦の喫茶店を訪れた日のことは、また後ほど…。

2011年8月27日土曜日

久しぶり


しばらくほったらかしてしまったブログ。また少しずつ書き始めようかと思います。娘は心も体もすくすくと成長していき、話す言葉もとても個性的になってきて、それを記録したいなあと思いながら、雑事に追われて日にちばかりが過ぎるこの頃。もう少し一日一日を意識して過ごして行きたいなあと思うのだけど、なかなか…。

娘の夏休みは、本当に夏休みらしい夏休み。海に行き、里山で遊び、親戚に会い、遠くの友達に会い、動物と触れ合い、プールに入り、水遊びをし、よく食べ、よく笑い、良く寝て、時々泣いて。そんな娘の姿を毎日見られることは喜ばしいこと。

もう夏休みも終わろうとしているけれど、夏休みのことを少しずつ記録していこうと思う。夏を越えて、本当に娘は一回り大きくなった。

2011年5月5日木曜日

雨に濡れた緑


 以前住んでいたマンションでは、雨が降ると子連れでは出かけるのは一苦労で、ほとんど家にいることが多く、娘も外で遊べないからかストレスもたまり、「明日は雨か〜」と、なんだか気分が沈むことが多かった。でも、この家に引っ越してから雨の日も楽しめるようになった。窓からの景色には本当に毎日元気をもらっており、雨の日もそれは変わらない。この時期は新緑がとても綺麗で、雨に濡れた新緑は更にその魅力を増していて、眺めているだけで落ち着いた気持ちになる。

子供は雨なんかへっちゃらなのは、今も昔も変わらないのか、娘は雨とわかると傘をさし、かっぱを来て長靴を履き外に出かけてしまう。庭で虫を探したり、雨なのに更に草花にお水を上げたり。そんな姿を見ているのも楽しい。雨の降る窓辺を眺めながら本を読む心地良さといったらない。

2011年5月3日火曜日

久しぶりの箱根


だいぶ前になるけれど、箱根彫刻の森美術館で開催されていた「Where is Miffy?」展に出かけてきた。引っ越してきてから箱根には前よりも気軽に行ける距離になったのが嬉しい。箱根は昔から、なんとなく一年に一回くらいは出かけてしまう場所。高校の時にとても仲良くしていた友達と、大学のときに箱根に行ったのがとても楽しかったのだけれど、その友達とは色々事情があって、連絡が取れなくなってしまった。今でもとても悲しいと思っている。いつか連絡が取れたらいいのにとずっと思っているので、時々彼女のことを夢に見る。夢の中で、「ああ、やっと連絡がとれた!すごく嬉しい!」と思っているのだけど、目覚めてみてそれが夢だと知って、何回がっかりしたことか。

悲しい話になってしまったけれど、展示はなかなか面白かった。予想よりスペースが小さかったのが少し残念だったけれど。最後に見たこのmiffyランプがとても可愛かった。家にあったらいいなあと思ったのだけれど、非売品なのだった。残念。

帰りは久し振りに日帰り温泉へ。湯船から桜も見えて贅沢な露天風呂だった。久々の息抜き。

2011年5月1日日曜日

幼稚園が始まってからのこと


娘が幼稚園に入園した途端に、とても忙しい日々がやってきた。入園式が4月の13日にあり、そこから一週間は午前保育であっという間に帰ってくる日々。その後、一日保育が始まってからは、ようやく自分の時間ができるかと思いきや、そうではなかった。噂に聞いていた通り、母親たちがとても積極的に園に関わっている幼稚園なので、色々な活動や懇親会のようなものがあり、4月は本当に駆け抜けるように過ぎてしまった。その間に、家庭訪問などもあり、改めて、ああ、親になったのだなあとしみじみする。

でも、出産してから3年と少し、娘とべったりの日々だったのが、娘は娘の世界、私は私の新しい世界が始まって、それは二人にとって、とても刺激ある楽しい日々になっている。毎日、園からの帰り道、「今日はこんなことしたよ〜。」と楽しそうに話してくれるのが私もとても楽しみ。そして私は、園で広報部に立候補し、取材やら広報誌の代割決め、レイアウト作業など、忙しいながらも色々と楽しみのありそうな活動に、少しわくわくしている。

平日は幼稚園の活動をめいいっぱいしてくる娘は、週末になると、お父さんにべったりになる。園でのことを話したり、二人で散歩にでかけたり、とても楽しそう。最近は、私が朝起きると二人がいなかったりもする。そして私は新聞を読みながらゆっくり珈琲を飲める時間が嬉しい。

いろいろとここに記したいこともあるのに、今まで以上に毎日があっという間に過ぎていく。少しずつ思い出しながら記していこうと思う。

※旧ブログのアドレスを知りたいと言う方が何人かいたのでこちらに記します。
http://blossoms.exblog.jp/

2011年4月5日火曜日

最近の読書


地震があった後、最初はテレビのニュースを見ていたのだけれど、なんだかどのニュースを見ても悲しくなってしまうので、次第にテレビは付けなくなってしまい、その分本ばかり読んでいた。この家に引っ越してからは、本当にテレビを見なくなった。たまに見たいドラマや映画があったりするのを新聞欄で確認するのだけど、見忘れることの方が多くて、まあそれならそれでいいやと思ってしまい、本当にテレビを見なくなってしまった。娘も同様に見ないので、子供番組のキャラクターすら全然知らない。たまにテレビをつけていても、娘は「テレビけすからねー!」と言ってすぐに消してしまう。そして娘も同様に本ばかり読んでいる。絵本が本当に好きで好きで、絵本を読み続けていたら何時間でもじっと聞いていると思う。寝るときには、毎日自分で読みたい本を選んで、布団の中で楽しみにして待っている姿は微笑ましい。私も昔から本が好きだったので、同じように本好きに育ってくれるのは嬉しい。そして、確実に娘の語彙は絵本から増えているなあと思うこの頃。時々びっくりするような言い回しをするので、「どこで覚えたの??」と思うけれど、思い出してみるとそれはみんな絵本からの言葉なのだ。その語彙を使って、想像力を働かせて自分だけの物語を作って話してくれたりするので、それもとても楽しい。

私が最近良く読んでいるのは、三浦しをんさんの本。三浦さんは町田で育ったとのことで、4月には、町田を舞台にした直木賞受賞作「まほろ駅前多田便利軒」という作品の映画が公開される。その関連のイベントが町田では目白押しで、今まで興味はあったけれど未読だった「まほろ駅前多田便利軒」を読んでみた。町田が舞台ということで、まだ引っ越してきて4ヶ月ではあるけれど、これはあの辺かな?これはどの辺りのことだろうか…?などと想像しながら読んでいたら、あっという間に読み終わってしまった。登場人物がみな魅力的で、「これは映画や漫画になりそうだなあ。」と思って楽しく読み終えたら、映画はもちろん、漫画にも既になっていたのだった。納得。その後、三浦さんの著作を立て続けに読み、エッセイなど読んでいたら、三浦さんは漫画(特にボーイズ・ラブ)が好きらしく、なるほど、読んでみた他の著作も男性がからむ作品が多かった。そしてやっぱり映画や漫画になっている作品も多いらしい。それにしても文章がとても上手く読み応えがあり、一冊読み終わるとすぐに次の作品を読んでみたくなる。短編などは、章ごとに全くタッチが違う作品が並んでいたりで、ページを捲るのが楽しかった。エッセイはエッセイで小説とは違ってすごく軽い感じが面白い。でもやっぱり私は小説のほうが好き。wikipediaを見ていたら、「好きな行為は妄想」と書いてあった。いいなあ、妄想。私も妄想は大好き。

三浦さん以外では、辻村深月さんの「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ」がとても良かった。タイトルが不思議だなあと思って興味も持ったのだけれど、その意味を知ったとき、「ここで出てくるとは…!」と衝撃を受けた。色々考えさせられる内容だったけれど、今の自分にとって、読んで良かったなあと思う作品だった。

2011年4月4日月曜日

食べること


先日、友人家族が遊びに来てくれた。お昼はいつもながらの持ち寄りにしたのだけれど、3家族で持ち寄ったらとても豪華な食卓になった。大勢で食べることって幸せだなあと思える時間だった。

最近の娘はなんだか良く食べる。昔から良く食べる方だったけれど、途中、なんだか遊び食べの時期があって、食卓に座ってもなかなかきちんと食べてくれずに悩んだ時期もあった。でも、周りの先輩お母さん達には「時期が来れば食べるようになるよ」なんて言われていたけれど、最近は、そんな時期があったことを忘れてしまうくらい本当によく食べる。特に、お肉が大好きで、おかずの中でもお肉を探しては「おにく!おにく!」と言ってお肉だけ選んで食べたりする。唐揚げ、ハンバーグ、ヒレかつなんかも大好きで、この間は一口ヒレかつを一人で4枚くらい食べていて驚かされた…。大人よりも食べている。

幼稚園が始まると、一人でお弁当を食べることになるけれど、園の友達と楽しく食べてくれるかな、お弁当には何を詰めようかな、そんなことを考える日々。自分の作ったご飯をもりもりと食べてくれる人がいるのは嬉しい。

ここしばらくは、いわきから避難してきている義両親と一緒に食卓を囲んでいるので、毎日賑やかになる。献立も、私たち家族だけでは作らないようなものを作ったり、量も多いのでなんだか作り甲斐がある。やっぱりご飯は、一緒に食べる人が多ければ多いほど楽しいのではと思う。震災があって、思いがけずに義両親とそんな時間が持てたことは嬉しい出来事だった。

2011年4月2日土曜日

悲しみばかりではいけない


こんな個人的なブログでも、読んでくれている人はいるようで、その中の一人から「最近は悲しみ一色だね」と言われてはっとした。確かに悲しいことは多いのだけれど、そればかりではいけないな、楽しい日常のことも書いていこうと、やっとそんな気持ちになれてきた。

正直、3月の一か月は、何かを書こうとしても、なかなか文章にならなかった。毎日行方不明者の数が減り、その分死者は増え、それがなんだか単なる数字としての報告みたいに捉えてしまうのもつらかった。新聞には、色々な人の記事が載っていて、それを読んで泣きそうになることもしばしばだけれど、逆に、絶望の中から頑張って行こう、ここから立ち上がろうという人達の記事も沢山読んだ。特に娘と同じくらいの子供を失った人、またそのくらいの小さな子が親を失った記事など読むと、自分に置き換えたらこんなに気丈に居られるのだろうか、立ち上がる力すらなくなるのではと思い、涙ばかりが出てしまったのだけれど、そればかりではいけないと、最近になって本当にようやく思えるようになってきた。

季節が春になって、娘の幼稚園入園という行事もあり、私たち家族にも新生活が始まる。前を向いていこうと思った。余震や原発など、まだまだ目の前の拭いきれない不安は多いのだけれど、悲しいことばかりを考えるのではなくて、少しでもあの日常にみんなが戻れるように、何か力になれるようなことを、小さなことでもしていきたい。

写真は家の前のとても立派な桜。満開の時期には毎日のようにメジロ、ヒヨドリ、ツグミなどが桜の花の蜜を吸いに来ていた。朝ご飯の最中に鳥たちの鳴き声が合奏を奏でていて、朝からとても気持ちが良くなる日もあった。玄関から一歩出ただけで、こんな景色を楽しめることにとても感謝している。

2011年4月1日金曜日

知らなさ過ぎて泣けてきた


気づいたらもう4月になっていた。今年ほど3月と4月の境目が意識できなかった年もまれだった。毎日、いわきから来た両親と、ニュースを見て新聞を読んで、一進一退する原発の状況を、ただ見つめているしかなかった。それでも季節は変わって、近所の桜が次々に咲き、ピンクと黄緑のグラデーションで目を楽しませてくれている。

私は恥ずかしいことに、原発についてこれまで殆ど知らなかった。日本に50基以上も原発があることも知らなかったし、いわきに両親が住んでいるというのに、福島第一、第二原発の場所は愚か、福島に原発があることすら知らなかった。そして、その電力が東京の為のものということも当然知らなかった。もう、本当に知らなさ過ぎて、とてもとても恥ずかしくて涙が出てきた。今回の地震があって、これほどの重大な事故になってしまって、事態がとても深刻なことは分かっているのだけれど、東電や保安院の会見に文句を言う人がいても、自分の無知のほうが申し訳なくて、なんだかそんな気になれなかった。ただただ泣けて来てしまった。


「原発反対!」という運動やブログ、新聞記事などは今までも色々なところで見ていたのに、どうしてその時に真剣に勉強しなかったのだろうかと自分を恥じた。そこで私が勉強していたからといって、何がどう変わるというわけではないのだけれど、こんなにも知らなさ過ぎたのに、いざ事故が起こって「酷い!」なんて言えなくて。それでも悲しさや虚しさだけは日々襲ってきて、なかなか心が平穏にならない。

ちょうど4月2日は忌野清志郎さんの誕生日だった。色々なところで話題になっているけれど、「LOVE ME TENDER」「SUMMER TIME BLUES」の歌詞を改めて読んで驚いた。清志郎さんが反原発の歌を歌っていたことは知っていたけれど、こんなに今の現実に悲しいくらいに当てはまっている歌を、もう20年も前に歌っていたんだもんなあ。清志郎さんが生きていたら、今のこの現実にどんな歌を歌ってくれたんだろう。清志郎さんの命日までもあと約一ヶ月。今頃空の上で、どんな顔で私たちを見ているんだろう。

2011年3月20日日曜日

仙台のおじいちゃんのこと


東北地方太平洋沖地震があった、ちょうど一週間前に、仙台に住む旦那さんのおじいちゃんが亡くなった。

もう90歳間近で老衰もあり去年の9月頃から入院はしていたけれど、それほど容態が急変しているというわけではなくて、それでも最近は少し意識が遠くなる時間があるから今月の連休くらいにはお見舞いに行こうということを、お義母さんと話していた。それは3月4日のことだった。そして、3月の3連休に仙台に行くことを決めたその翌日、3月5日の夜、娘を寝かしていた私のところに来て、だんなさんが「おじいちゃんが亡くなってしまった。」と告げた。お見舞いに行くつもりで久しぶりにおじいちゃんに会えると思っていたので、あまりの突然のことになんだか頭が整理できなかった。そして2日後の3月7日に、家族で仙台に向かった。

3月7日がお通夜、8日が告別式だった。家族、親戚、友人などに見守られたおじいちゃんはとても良い顔で眠っていて、遺影もとても優しい笑顔だった。私は数回しか会ったことないおじいちゃんだったけれど、娘の野乃子を抱っこしたり遊んだりしてくれた姿を思い出して、涙がはらはらと出てきた。野乃子は、「おっきいおじいちゃんがしんでしまって、もうさよならなんだ」ということは理解できているみたいで、何度もおじいちゃんの棺の側に寄って顔を見ては、おじいちゃん、ばいばいだね、と語りかけている。その姿を見てまた私も泣けてくる。

おじいちゃんを送るのはとても寂しかったけれど、野乃子はそんな中でも天真爛漫にはしゃぎ、私もだんなさんも初めて会う親戚の方々にもあっという間に慣れて、本当に沢山の人の手を握っては笑わせたり、抱っこしてもらったり、会場内をぱたぱたと走りまわって笑顔を振りまいていた。正直、告別式なのに…と私のほうははらはらしていたけれど、親戚の色々な人から「ののちゃんが居てくれて本当に良かった。湿っぽくなるところが、ののちゃんのおかげで良い雰囲気で送り出せた。」という声をかけてもらえて本当に私の気持ちも癒された。

告別式の後の親族の会食では、9人きょうだいだったおじいちゃんの、甥や姪、その配偶者…など、それぞれ親戚ながら初めましてという人も沢山いたようで、また何十年ぶりに会う人もいたので、改めて親族紹介が行われ、それぞれがおじいちゃんの思い出を語ったりと、とても心温まる会食になった。おじいちゃんは沢山の人に温かく見守られて天に召された。

私たちはその日一晩泊まって、9日の朝の新幹線で東京に帰ってきた。そしてお昼に家に帰ってきたら、そのまま会社に行っただんなさんから「今、仙台で大きめの地震があったみたい」と連絡をもらった。すぐに仙台に連絡したけれど、大丈夫だったよ、と連絡をもらって安心する。だんなさんの両親は福島のいわきから車で仙台に来ていたのだけど、午前中は仙台に居たので地震にあい、それが落ち着いてからいわきまで車で帰ってきたという。そのときは、その2日後にあんなことになるなんて思いも寄らなかった。

そして11日の午後、あの大きな地震が起こった。何よりも仙台の親戚、いわきの両親が心配になったけれど、当日は当然、電話が全く繋がらず、翌日になってからどちらも無事ということを知り、本当に安心した。そして後から聞いた話では、仙台では11日の午前中に、ちょうど初七日の法要を済ませたところだったという。

お見舞いの予定まで立てていたのに、急に逝ってしまったおじいちゃん。私は、おじいちゃんが地震を予期して、先に逝ってしまったのかなと思わずにいられなかった。長いこと会っていなかった親戚をみんな一同に会わせて、野乃子も久しぶりにおじいちゃんやおばあちゃんにの顔を見ることが出来て、そして皆で楽しい会食をして、思い出話をして、地震が来るけれどみんなくじけずにね、親戚がこんなにいるのだから力を合わせて頑張ってね、自分は先に逝くねと、そうやって笑顔で逝ってしまったように思えた。

後からお義母さんの話を聞くと、おばあちゃんのことも心配だったし、もう少し仙台に留まろうかと思ったけれど、なんだか帰らなければならないような気がして帰ったという。そして帰り道は、海沿いを走って、被害の大きかった南相馬のあたりを走って帰ってきたらしい。それが、あと2日ずれていたら津波に巻き込まれていても不思議ではない。もしおじいちゃんが病院に入院したまま被災していたら、どうなっていたのだろう。亡くなる日がもう少し遅かったら、お葬式も出来ず、私たちは当然仙台にも行けなかっただろう。或いは仙台に行って被災して帰ることが出来なくなっていたかもしれない。考えると本当に私たちはおじいちゃんに守られたのかなと思う。

正直、こういうことを書くのは、少し抵抗がある。今回の地震ではそのわずかのタイミングのずれで、地震や津波で亡くなってしまった人もいるのだから、自分たちは運が良かったみたいなことは書きたくなかった。新聞を読んでいると、「津波があと5分遅かったら…あと1分早く逃げていたら…」というような人の話を沢山読んだ。1分の差で助かった人もいれば、亡くなった人もいる。幸い私たちの仙台の親戚は皆無事だったようだ。震災で亡くなった人たちのことを考えると、本当に涙が出てくるけれど、私たちはあの時おじいちゃんに守ってもらったと思ってこの先の人生を生きて行きたいと思った。

2011年3月18日金曜日

東日本大震災


地震以降、何かを書き記そうという気持ちに中々なれなかったのだけど、少し気持ちが落ち着いてきたので、地震以降、記録や思ったことを少しずつ記していきたいと思った。

あの大きな地震があった日、偶然だんなさんは会社がお休みで、娘と一緒に近所の公園に遊びに行っていた。私は、車で10分くらいの友達の家に行っていて、ちょっと話をして帰るつもりが予定より少し長めに滞在してしまい、「もうこんな時間だ!」と慌てて家に帰った。家について、車を車庫に入れて、公園に行っているだんなさんに電話をかけて、「今帰ってきたから、そろそろ帰ってきて〜」と喋りながら、玄関の鍵をあけて今まさに家に入ろうと取っ手に手をかけた瞬間に、ふら〜っとめまいのような揺れが来た。「めまい?」と思った次の瞬間には、ガタン!と大きな揺れがきて、「あ、地震!」と思うと、そこからは揺れがどんどん大きくなって、立っているのが怖いくらいに。近所のおばさんは布団をもって目の前の空き地に飛び出してきていた。かろうじてまだ電話は繋がっていて、「怖い!怖い!早く帰ってきて!!」と言うのが精一杯。それから、少しして、だんなさんと娘が自転車で帰って来たのだけれど、そのときのほっとした気持ちといったら喩えようがなかった。

その後、家に入ったけれど、既に停電になっていてテレビも付けることができない。もちろんネットも電話も繋がらず、携帯電話も全てだめ。ラジオも引越しの際に古いものを処分してしまったので手元になく、とにかく情報が入らない。市の放送で震度5だったことをかろうじて知る。その時はまだ、被害の甚大さを知る由もなく、町田で震度5なんだから、震源はきっと東京の近くなんだろうと思っていた。停電も解消されそうもないので、その日はなとかご飯だけは食べて、家族で18時には布団に入ってしまった。そして23時頃になってようやく停電が解消されたことに気づき、地震後初めてテレビを付けた。そのときの衝撃は今後、忘れることは出来ないと思う。目の前に映された映像の中で起こっていることが、日本国内、それも数時間前のこととはとても思えなかった。ただただ恐ろしく、でも、そこから目を離すことが出来ず、ただテレビの画面を食い入るように見つめてしまった。震源が宮城県沖、そして福島のほうも震度がかなり大きかったことを知り、だんなさんの両親に電話をかけるも全く繋がらない。テレビ画面に出ていた「仙台若林区荒浜地区、遺体が200から300。」というテロップを見て鳥肌が立つ。若林区には親戚が住んでいる。一刻も早く連絡を取りたいけれど、繋がらない。テレビからは、次々と恐ろしい映像が流されて、とんでもない災害が起こってしまったのだと理解する。映像が怖くて思わずテレビを消して布団に入るも、そのまま朝までほとんど寝付けなかった。忘れられない一日になった。

テレビで、都内ではみんなが帰れなくなっていることを知る。友人は8時間くらいかけて歩いて帰っていたらしい。寒い夜、みんな家族と離れて家には帰れず、どんなに不安な気持ちでいるのだろうかと心が痛む。偶然にだんなさんは会社が休みだったこと、地震の直後に家族がすぐに揃ったことは本当に幸せだったと、隣に寝ている娘の寝顔を見ながら思っていた。

2011年2月17日木曜日

パン作り


最近は、少し暖かくなってきたので、またパン作り熱が再開してきた。

沖縄でお世話になった友達はとてもパン作りが上手で、毎朝美味しいパンを頂けたのがとても嬉しかったので、やっぱり自分でも作ろうと思い、沖縄から帰ってきてからは時間を見つけてパンを焼いている。酵母は引越しのバタバタと冬の寒さであまり元気がなくなってしまったので、イーストを使ったパンだけれど、やっぱり自分で作ったパンはとても美味しい。娘は柔らかいパンのほうが好きなようで、最近はちょっとリッチな生地の食パンを作ることが多い。焼き立ての柔らかな食パンはふんわり美味しくて、娘もぺろりと食べてしまう。そして最近、私がパンを捏ねていると、「わ〜!おかあさん、またパンつくってくれるの!ありがとう〜!」と、本当に嬉しそうに言ってくれるので、くすぐったいくらいにこちらも嬉しい。

最近は、私の隣で、踏み台を持ってきて一緒にパンを捏ねてくれる。その姿がとても可愛くて、こんな風に一緒にお菓子やパンを作るの楽しみだったなあ、もうそんな時が来ているんだなあと、とてもしみじみとしてしまった。

2011年2月14日月曜日

今年の阪神キャンプ


2月といえば、プロ野球春季キャンプの季節到来。来年は娘も幼稚園に行くようになるので行けるかどうかわからないし、また、贔屓の選手が引退してしまうのも悲しいし(去年の矢野さんのように…)ということで、今年もまた、阪神キャンプを見学に沖縄まで遠征してきた。それに11月に産まれた大切な友人の赤ちゃんにも会えるということで、飛行機のチケットを取ってからは、出発の日までわくわくした毎日を過ごしていた。

到着当日は友人の家に泊めてもらい、次の日の朝から阪神キャンプ地の宜野座村へ。今年は2回目なので、去年ほどのドキドキはないかな〜と思っていたけれど、やはりキャンプ会場が近づいてくるとなんだか興奮してくる。そして車を停めると駆け足になって練習会場へ。

キャンプの一番嬉しいことは、やっぱり選手を本当に間近で見られること。選手の声、息遣いまで近くで感じられるし、守備練習や打撃練習、投球練習など、場所を変えながらいろいろと見学をしていると、いつもはテレビで見ているプロの選手たちも、こうやって地道に練習をして、その練習では上手くいくときもあれば、失敗してコーチに怒られたり、仲間同士でふざけあったりしているんだよなあと、なんだか今まで以上に親近感がわく。私が贔屓にしている選手も、練習しながらちょっとふざけてみたり、笑顔で守備練習をしていたり、それが間近で見られるのだから楽しくて仕方ない。娘は、選手の練習よりも、今年から阪神のマスコットになったキー太くんを相当気に入ったようで、ずっと追いかけては触れ合って喜んでいた。

阪神ファンはとにかく人数が多く、さらにみんなとても情熱が熱いので、選手に対してもちょっと度を超したような熱意を送る人もいる。だから、みんながみんな良い顔をしているわけではないのだけれど、練習の合間に見せてくれるファンサービスには、やはり嬉しくなる。特に外国人選手は本当に優しくて、サインはもちろん、写真を撮ってくれたり、握手や子供を抱っこしてくれたりなどもあって本当に嬉しい。娘はメイングラウンドを歩いていたブラゼル選手に、フェンス越しにこっそりバッティンググローブをもらって、とても喜んでいた。そのグローブは、「ののちゃんがもらったの!」と言って、母にも触らせてくれないほど…。今後我が家の家宝になりそう。

偶然に、去年阪神を引退したばかりの矢野燿大氏がキャンプのレポーターとして来ていたので、思いがけず矢野さんを間近で見られるという嬉しいおまけもあり、今年の阪神キャンプもとても楽しかった。そしてやはりシーズンが待ち遠しくなる。シーズン開始まであと一ヶ月と少し。キャンプで見たあの選手はどんな成績を残すだろうか、今年から加入した選手はどんな活躍をしてくれるのだろうかと、楽しみで仕方ない。今年は2日間しか練習を見られなかったけれど、家族で大満足して宜野座村を後にしたのだった。

2011年1月20日木曜日

絵本よんであげる


娘は本が大好きで、図書館に連れて行くと両手に抱えきれないような本を抱えて、「おかーさん、これもよみたい!これも!これも!」と持ってくる。引っ越すことを決めたときに、図書館が近くにあることは優先順位の中でもかなり上位をしめていた項目。不動産屋さんにも「図書館の近くが良いです!」と言って、土地の下見のときには、図書館の下見もしたほど。

さて、その図書館。家から歩いても行ける距離なので頻繁に利用している。団地の商店街の中にポツンと存在し、小さいながらもとても落ち着く空間。川崎に住んでいたときよりもずいぶん規模は小さい図書館なのに、いつ行っても読みたい本を借りられるのは、この図書館と相性が良いということなのだ!と機嫌を良くしている。


娘は、家にある洋書の絵本を良く「よんでー」と言って持ってくる。もちろん英語で読んでもわからないので、適当におはなしを作って読んであげる。娘もそうすることを覚えたのか、ご飯を作っていると、洋書絵本を広げながら一人で話をつくってページをめくっていたり、私にお話を聞かせてくれたりする。こんなときは、子供の想像力は大人よりも本当に逞しく豊かなのだなあと思う。


2011年1月17日月曜日

「頑張っているのはお母さんです。」


春から娘がお世話になる幼稚園では、週に一度2歳児のクラスがあり、引っ越してから参加させてもらっている。午前中の2時間程、20人弱の親子達で、周囲を散策したり、例えばみかん狩りやクリスマス会などの季節の行事を楽しんだりする。

娘は、引越す前の川崎のマンションでは、あまり歩くのが得意ではなかった。その頃はまだ2歳半くらいというのもあったけれど、とにかくすぐに「だっこ!だっこ!」と言う。マンションでは玄関を開けたらすぐに外というわけではないので、外に出るにもぐるっとエントランスホールまで出ていかねばならず、また周囲は車も多くて遊ぶのも近場の公園ばかり。長距離を歩くのに慣れていない。春から入る幼稚園はとにかく自分たちの足でどこまでも歩くとのこと。このまま幼稚園に入るとちょっと不安だなあと思い園長先生に相談したところ、途中からでも参加してみてはどうかと言われ二つ返事でお願いすることに。

「たんぽぽ」というその2歳児クラスに入って驚いたのは、とにかく子供たちがとてもきちんとしている。例えば、先生が「見繕いをきちんとしましょうね。」と言うと、ズボンからはみ出ているシャツを自分で中に入れる。靴下がずり落ちていたら自分で上げる。騒いだり走りまわったりする子もいなくて、先生の言うことをきちんと聞ける。でも、それは4月からの積み重ねであって、先生の話だと、4月にはまだ泣いたりぐずったりする子もいたけれど、季節を経てどんどん成長していったとのこと。

でも、その成長について、先生が褒めるのは子供ではなかった。先生はいつも子供達はこんなに色々なことが出来るようになりましたねと、子供の成長を振り返ったあとに必ず、「でも、えらいのは子供じゃありません。子供たちももちろんえらいけれど、えらいのはお母さんです!」ときっぱりと言う。「お父さんでもありません。お母さんですよ!」「おかあさん、あなた達は本当にえらいんです!」と言ってくれる。毎日、だだをこねても泣かれても、子供と真剣に向きあって成長を見守ってきたのはお母さん、だからえらいのはお母さんなんですと、そうはっきり言ってくれる先生の言葉を聞くと、本当に涙が出そうになる。

子育ては本当に毎日のことで、特に私は一人目の子なので、毎日のように悩んだり反省することも多々ある。そして、気づくと心がカチコチに固まってしまったりすることもある。そういうときに、「お母さんはえらいんです。」と、その一言が、こんなにも心を溶かしてくれるのだなあと、本当に嬉しかった。毎日子育てをしていてもそれは当たり前のことで誰も褒めてなんてくれない。それでも、「えらいんね。がんばってるね。」と、そう言われたかったんだなと、先生の言葉を聞いたときに強く思った。たった一言でこんなにも救われるんだなと。

最近の新聞では、「保育所をもっと増やそう」「女性がもっと働けるように」というような見出しを良く見る。そういう記事はたいてい働く女性に対して背中をぐいっと押してくれるような記事なのだけれど、時々違和感を感じることがある。保育所が増えて、もっと働くお母さんが増えたら、お母さんから離れる時間が多くなる子供だって増えるんだということを考えている記者の人はどれくらいいるのだろう。子供を預けて働くことが悪いことだとはもちろん思わないけれど、子供とお母さんが一緒にいる時間の大切さも、もっと取り上げられても良いのにと思う。

私がどんなに怒っても叱っても、寝る前には「おかあさんだいすきだよ。」と言ってくれる娘を見ていると、子供にとって母は絶対の存在なんだろうなあと思う。だから、母は悩みながらも明日も頑張ろうと思えるんだ。

2011年1月14日金曜日

仲良し


引っ越してきてから、猫のミルクは妙に活発になった。マンションにいたときは寝室の毛布の上でじっとしていることが多く、さすがにもう歳を取ってきたから動くのも大変になってきたのかなあなどと思っていたのだけれど、こちらに引っ越してきた途端に、運動好きのおてんば猫に戻ってしまった。おかげで、床にはすでにひっかき傷がいくつか…。我が家の床は杉の無垢材なのだが、柔らかいので簡単に傷がつく。その柔らかさは暖かさにもなっていて、裸足で歩いても肌にあたる部分が優しい。なのでこの傷は仕方ない、年月を重ねて増えていく我が家の味の一つだね、ということで納得する。

娘とミルクもなんだか引っ越してきてからのほうが仲良し。娘のお気に入りの椅子はミルクもお気に入りのようで、一つの椅子に一緒に座ったりしている姿は微笑ましい。「おかーさん、みて!ミルクちゃんとなかよしだよー。」と言う声を聞いて安心している次の瞬間には「おかーさん!ミルクちゃんにかまれたー!!」という泣き声が聞こえてきたりするのだけど。

2011年1月12日水曜日

寒い朝


今まではマンション暮らしだったので、さすがに一軒家に越してきて冬の寒さを感じる。また住んでいる地域も、川や森がすぐ近くにあるので街中よりも寒さが厳しいようだ。近所の方は、駅の近くからこのあたりに引っ越してきて、2度くらい気温が低いように感じると言っていた。

最近の朝は本当にひんやりとしていて、なかなか布団から出ることができない。それでも、えいやっと布団から出て、まず温かいお湯をわかして白湯を飲む。白湯をゆっくり飲むことで新陳代謝が上がると聞いたので。体温の下がった胃にゆっくりと熱いお湯が入っていきながら、体が少しずつ目覚めるのを感じる。

休日の朝や、だんなさんの出勤に少し余裕のある朝は珈琲を淹れてもらう。湯気の白さに改めて寒さを感じる。ゆっくり落とされた珈琲を飲める朝は少し気持ちに余裕が出て、物事が落ち着いてこなせる気がする。娘は寒い朝でもウッドデッキに出て行き、「いきが、しろいよねえ。」などと言っている。ウッドデッキは我が家の第二のリビング。日が当たっている時間はとても気持ちが良い。

2011年1月10日月曜日

夕方の散歩


家の目の前には、大きな調整池を兼ねた公園があって、毎日夕方になると犬の散歩をする人たちで賑わう。娘はどういうわけかまだ赤ちゃんのときから、本当に犬が好きで、歩けるようになって間もないころから、とにかく犬を見ると寄っていって、自分よりも何倍も大きな犬も怖がらずにいつまでも撫でているのだった。

その犬好きは今も変わることなく、家の近くで散歩している犬を見ると、どんな犬でも寄っていってしまう。幸い、家の向いにはゴールデンレトリバーと雑種の2頭を飼っているお宅があり、そこのおじさんおばさんが本当に良い方で毎日のように娘も一緒に散歩に連れていってくれる。ゴールデンのほうは体重が娘の3倍もあるにも関わらず、娘はその子を連れて歩けるのがとても嬉しいらしく、リードを自分がもって誘導し、広い公園を一周して帰って来るととても満足そうにしている。

最近は、散歩の後にまだワンちゃん達と遊び足りないらしく、「おかーさんはおうちにかえっていていいよ。ののちゃんはカールくんのおうちにいくから。」と言って、ワンちゃんのお宅に一人で入っていってしまう。そんな姿は頼もしくもあるけれど、母としてはちょっと寂しさも感じる。でもこれから幼稚園に入ったらもっと自分の世界が沢山できて、お母さんなんかいなくても大丈夫になっていくのだろう。「おかあさん、ぎゅうーってして!」なんて言うのも、そのうち言わなくなってしまうのかと思うと、今のうちに沢山沢山抱きしめておかないと、などと思う。

2011年1月8日土曜日

あさごはん


前の住まいはリビングダイニングが西側に面していたので、朝の食卓に、朝日を感じることができなかった。朝から部屋に電気をつけなくてはいけない生活で、それが何とも寂しかった。できることなら朝日を浴びて食事をする生活をしたい、引越し先ではぜひともその願いを叶えたかった。選んだ土地は幸運なことに東側が道路に面しており、道路を挟んだ隣家は地主さんのお宅で、竹林や常緑樹の生垣を借景として楽しむことができる場所。この東側の借景を生かさない手立てはないと、設計士さんは東側に大きな開口をとった間取りを考えて下さった。

そのおかげで現在は、隣家の奥にある東の山の上から朝日が顔を出す瞬間も見ることができるようになったし、食卓には朝のまぶしい光が目一杯入ってくる。その光を浴びながら食事が出来るのはとても気持ちが良い。娘の食事の量が以前より多くなったような気がするのも、嬉しいことのひとつ。

2011年1月7日金曜日

寺家ふるさと村のこと


引っ越してきて嬉しかったことの一つは「寺家ふるさと村」に自転車でも行けるくらいになったこと。ここは横浜市になるけれど川崎市や町田市とも隣接している地域で、開発されていない自然のままの里山が広がっている。水田や溜池、散策のできる小山などもあり、近くには住宅地も隣接しているのに、ここだけは昔ながらの田園風景が広がっている。娘を出産した助産院もすぐ近くにあって、検診の後に良くウォーキングして帰ったものだ。川崎に住んでいた頃は、ここまで来るのには電車とバスを乗り継がなくてはいけなかったけれど、今では自転車に乗っても20分くらいで到着する。

ここもやはり実家にとても良く似ている。小さい頃の記憶というのはいつまでも色褪せないようで、ここに来ると、実家に里帰りしたかのような懐かしい気持ちになる。一度中学高時代の同級生に写真を見せたことがあって、あまりに景色が似ているので驚いていた。

去年の春にはここで田植え体験をした。そして秋には収穫祭。このときに両親も一緒に連れてきたのだが、父は刈り入れの終わった田んぼに入って、娘のためにいなごを沢山捕まえていた。母が「お父さんが一番楽しそう。」と言うのを聞いて、私もこんな父の姿は久しぶりに見たなあと思ったのだった。

2011年1月5日水曜日

住まいを移して



去年の11月終わりに、川崎市から町田市に引っ越してきた。引越しを考えたのはそもそも、子育てをしていく上でもう少し緑の多い環境に移りたいなあと思ってのこと。そう思って土地探しをしたのがちょうど1年半前くらい。緑の多い土地を最優先事項に、旦那さんの自転車通勤もできる範囲の地域、そしてある程度友人とも行き来のできる距離…と思っていくつか土地をめぐり、行き着いたのがこの場所だった。不動産屋さんに紹介されてまだ更地だったその土地に立ったとき、東側には大きな山が見えて、眼に入る深い緑がとても心地よかったことを覚えている。少し坂になっているところだったので、坂を見下ろすと田んぼが見え、そこからの風も気持よかった。

それまでに、不動産会社の担当者にたくさんの土地を見せられたのだけど、どれも決定打に欠けていた。でも、そこの土地に降り立ったときに「ああ、ここかもしれない。」とそう思った。そして、その週末にはだんなさんを連れてきて再度その土地の良さを確認。さらにその次の週末には、だんなさんの両親にも見に来てもらい、みんなの意見が一致して、とんとん拍子に土地が決まっていった。そして、あの時に「ここに住むことになるんだろうな。」と、ぴんと来た感覚が、今では正解だったのだなあと思っている。

後から気づいたのだけれど、ここは私の実家の環境にとてもよく似ている。実家の裏には同じように山があり、小学校の頃は竹林や田んぼで良く遊んでいた。娘にも同じように自然いっぱいの中でいろいろな体験をさせてあげたいと思っている。これから少しずつ、家を建てるまでのことも書いていこうと思う。

2011年1月3日月曜日

思い出の地球儀ミル


だんなさんの両親の家で使っていた地球儀型のコーヒーミル。だんなさんの記憶にある限り、30年前くらいから使われていたとのこと。その思い出のミルが壊れてしまったと両親から連絡があり、代わりのミルを探していたのだけれど、喫茶店を開いている知り合いの方から「同じものの中古がありますよ。」と連絡を頂いて、ご好意に甘え譲って頂くことに。

細部こそ違えど、目の前にある壊れたミルとほとんど同じものが出てきて、両親も驚きながらも喜んでくれた。やはり思い出深いものだったようで私も嬉しくなる。もともと、だんなさんが珈琲好きになったのも、両親がこうやって昔から珈琲を豆からひいて飲む生活をしていたから。コーノ式のドリップセットも昔から使っていたとのこと。

そんな珈琲好きの家庭で育っただんなさんの趣味が高じて始まった【みなづき珈琲】、引越しのバタバタで1年ほどお休みしていましたが、新年より徐々に再開するとのことです。どうぞよろしくお願いします。

2011年1月1日土曜日

明けましておめでとうございます

今年の初日の出は、茨城県の高萩海岸にて。毎年行われているという、「元旦神輿渡御」が見られるというので楽しみに出かける。6時頃現地について寒い中待っていると、2基の神輿が海岸に。褌一丁の姿で神輿を担ぐ姿にこちらの身も引き締まる思い。こういう神輿の担ぎ手の方は、どこからどうやって集まるのかなあと不思議に思っているのだけれど、聞くと、とにかく祭りとなると神輿を担ぎたくて出かけていくというという人もいるとのこと。

明け方の海に、どんどん入っていく神輿の担ぎ手方。よく見ると、肩にはすごい担ぎコブが出来ていて驚く。外人さんや女性もいたり。側にはカメラを抱えた人がたくさん。テレビの取材が来ていたり、カメラのレンズも、ものすごい望遠のものを付けている人ばかり。よく見るとカメラを抱えた人はみんな長靴を履いていたり、釣り人が着るようなつなぎを来ていたりして、波にも負けずに一緒に海に入っていく。神輿の担ぎ手達は、海に入ったり、また出てきたり、なんども海岸を往復したり。その後ろをカメラを抱えた沢山の人たちがついていく。


日が登ってからは、神輿を海岸に置いて、担ぎ手の方々はみんなで海に入っていった。この日は特別波が荒いようで、神社の方が「こんなに荒れた海は初めてだー」と言っているのを聞く。次々に砕け散る荒波にも負けず、担ぎ手の方々、楽しそう。
雲が多かったので、水平線からの日の出は見られなかったけれど、雲の切れ間から見えた日の出はとても美しかった。今年も良い年になりますようにとお願いしながらシャッターを切る。海岸では、暖かい甘酒と豚汁が振舞われ、みな白い息を吐きながら美味しそうに食べていた。